ルター 善いわざについて No.2

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ルター 善いわざについて No.2
  1. 第一戒。「あなたは他の神々をもってはならない」。これは「私だけが神なのだから、あなたは私だけにあなたの全信頼と誠実と信仰とを置くべき出会って、他の何ものの上にもおいてはいけない」との意味である。

    • ある特定の神に外的に礼拝行為をしても一人の神を持つとは言えない。
    • 一人の神を持つと言えるのは、心から神を信頼し、行いにおいてであれ、苦悩においてであれ、生あるいは死においてであれ、愛あるいは悩みにおいてであれ、いっさいの善と恵みと好意とを神に期待するときに限るのである。


    この戒め(第一戒)が最大最善のものであって、この戒めから他のすべての戒めが流れ出て、その中を流れ、これに従って整えられ、はかられるのと同じように、その行い(神の恵みに対する常住不断の信仰と信頼)も、第一の最大最善のものであり、他のいっさいの行いは、それから流れ出て、その中を行き、その中に留まり、またそれにしたがって整えられ、はかられねばならないのである。神が私たちに対して恵み深く、好意を持ってくださることを考えないならば、私は神を信頼する気にはなれないであろう。この愛によって、私もまた神に対して好意を抱き、心から神を信頼し、いっさいの善を神に期待するように動かされるのである。

  2. 日ごろ神を信頼せず、その行ういっさいの行い、また苦しみ悩み、あるいは生と死において、神の恩恵、愛顧、好意を期待せず、かえってそれらのものを、神以外の事物、もしくは自分自身のもとに求める者はすべてこの戒めを守る者ではなく、たといその他の戒めの行いをすべて行ったとしても、紛れもない偶像崇拝を行っている。なぜなら、頭(かしら)となる行いがないからである。

    マタイ7:15
    偽善者を警戒せよ彼らは、数多くの善い行いをすることによって、自分を神の気に入る者となし、神からその愛顧を買い取ろうとする人々であって、まるで神を、恩恵も愛顧もただで与えることを好まない呼び売り商人か、職人でもあるかのように思っているのである。

  3. パウロはこう語っている。
    「正しい者は信仰によって生きる」(ローマ1:17)。
    「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマ3:28)。

    義が信仰に基づくものであるならば、信仰だけがすべての戒めを満たし、すべての戒めの行いを義とすることは明らかである。反対に、信仰がなければ、いかなる行いも神の前に人を義とすることはできない。

  4. 第一の戒めをただ外的な行いをもって満たすことと、内的な信頼をもって満たすこととの間には、どんなに大きな隔たりがあるかということは明らかである。後者が、正しい生きた神の子たちをつくるのに反し、前者はいよいよ邪悪な偶像崇拝と、地上で最も有害な偽善者とをつくりだすに過ぎないからである。

    信仰は行い相互の間に区別を立てないものであるから、ある種の行いが信仰と並んで、他種の行いに対しその優位を誇り、高ぶることはあり得ない。

  5. どんな行いが善であるのか、どんなことをしたら良いのかという人がいたら、この第一の戒め一つだけで、何ぴとの能力にも余る程の多くのなすべき事柄が与えられている。 もしその人間に「常に神への信仰と信頼のうちに生き、勝つ歩め。この信仰の基を他のいかなるものの上にもおいてはならない。唯一の正しい神を所有しそれ以外の神を持つな」と命じられているなら、それだけで十分、否、十分以上の負荷ではなかろうか。

     義とされ、善い行いで満たされたいと思う者は、すぐにも始めるがよい。絶えず、この信仰に基づいて、全生活といっさいの行いとにおいて自己を訓練し、絶えずこのような信頼において、すべてのことを行い、あるいは行わずにおくべきことを学ぶがよい。

     ようするに私たちが(私たちのなすべき通りに)すべてのことが神のみ心にかなうとの信仰を持っているなら、私たちのうちに存し、私たちの上に起こる行い、善でもなく、益ともならないようなものは、何ひとつとしてないに違いない。次のようにパウロは言っている。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(コリント一10:31)。

  6. 信仰が第一の戒めによって一切のことを果たすのであれば、なにゆえ、多くの霊的及び世俗的律法や、教会、修道院聖地巡礼などの儀式があって、人々を善い行いへと促し励ますのですか、とあなたは問うかも知れない。私はこう答える。「私たちは、必ずしも、全部が全部信仰を持っているわけでもなく、信仰を重んじているわけでもないからだ」と。 

    もしだれでもが信仰を持っているのならば、私たちはもはやいかなる律法も必要とせず、めいめいはこの信仰が教えるままに、常におのずから善い行いをなすであろう。

    ここに4種類の人間が存在する
    • 第一の種類の人間は、今述べたようにいかなる律法をも必要としない人々のことである。このような人々は、自分の知っていること、自分ができることを自発的に実行する。しかも神の好意と愛顧とがすべてのことにおいて自分の上にあることを、堅い信頼の目を持ってみている。
    • 第二の種類の人々は、このような自由を乱用し、自由への信頼を裏切り、怠惰に生きようとする。このような人々は、律法によって駆り立てられ、教えを勧告とによって補導されねばならない。
    • 第三の種類の人々は、いつも罪を犯すことしか考えていない邪悪な人々である。
    • 第四の人々は、このような信仰や霊的生活の理解において、まだ気まぐれで未熟な人々である。

  7. 第一の種類の人々が主題となる。

  8. 私は時々倒れ、駄弁を弄し、飲食をすごし、惰眠をむさぼり、あるいは何かにつけて度を越えて、それを避けることができないのに、わたしの行いがすべて神のみ心にかなうということを、どうして私は確実に期待できるのか、とあなたが問うならば、その答えはこうである。

     こうした問いがなされるのは、あなたが未だに信仰を他の行いと同等に見做して、いっさいの行いの上においていない証拠である。信仰は右のような場合にもなお存続して、それらの日々の罪を抹殺し、そしてまた神が恵みをもって、かような日々のつまずきや、弱さを見逃してくださることを疑わないからこそ、最高の行いなのである。それどころか、たとい死にあたる罪が犯された場合でも、信仰は再び上がって、その罪が消え去っていることを疑わない。

    「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(ヨハネ一2:1)。

     この信仰と信頼の高さと強さとは、人々をしてその全生涯も、活動も神の裁きの前には、ただ呪わるべき罪に過ぎないことを悟らせる程の者でなければならぬ。こうして、人は自己の行いに徹底的に絶望して、これらの行いが、神の審判でもなく、ひたすら神の恩恵と好意と慈悲と憐れみとを期待するこの信仰によらない限り、決して善とはなり得ないことを悟らなければならない。

    編25:3、詩編4:7
     このように諸々の行いが罪なきものとなるのは、神の憐れみと恵みとに由来することであって、決して行いそのものの本性によることではない。この憐れみに信頼する信仰のゆえに、もろもろの行いは赦され、義とされるのである。 私たちは神の子たちでありながら、なお罪人である。神のみ心にかないながら、なお行いは十分ではない。けれども、神の恩恵にかたく立つ信仰がこれら一切のことを果たしてくれるのである。

  9. この信仰と信頼とはどこに見いだされるのか、それともまたどこから来るのかと問われるならば、これこそ一番知る必要のある大切な事柄である。先ず第一に、信仰は疑いもなく、あなたの行い、あなたの功績から来るのではない。それは、ただイエス・キリストだけから来るのであり、無代価で約束され、与えられるものである。

     あなたはキリストの姿を心の中に結ばなければならない。そしてあなたの功績が先立って存在しなくても、神はキリストにおいて憐れみをあなたに示し、提供されていることを調べ場ならない。またこのような恵みの姿から、あらゆるあなたの罪が赦されているという信仰を信頼を汲み取らねばならない。

     それ故、信仰は行いにおいて始まるものではない。また行いが信仰をつくるのでもない。信仰はまさにキリストの傷と死から湧き出て流れ出てこなければならない。

     もしあなたが、キリストにおいて、神があなたのために御子をさえお与えくださるほどに、あなたに対して恵み深くあってくださることを知るならば、あなたの心はなごみ、あなたの方でも神に対して誠実にならずにはおれないはずである。こうして、信頼はひとえに、あなたに対する神の、また神に対するあなたの、好意と愛から出てくるべきものなのである。