ルター 善いわざについて No.1

 

ルターは、第一の善いわざは、「信仰」とする。そして十戒の第一の戒めを論じる。
 
ルターの場合、十戒は次の通り。
 
  1. あなたは他の神々をもってはならない
  2. あなたは、あなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。
  3. あなたは、安息日を聖とせよ
(第二の善いわざを論じるとき、十戒の第2戒を取り上げる)


  1. 第一に知らねばならないことは、ただ神が禁じられた罪のほかには、いかなる罪も存在しないと同様に、ただ神がお命じになった行い以外には、いかなる善い行いも存在しないということである。それゆえに、善い行いを知り、これを行おうと思う者は、神の戒め以外には何も知る必要はない。
  2. 第二、あらゆる善い行いの中で第一の最高の行いは、キリストを信じる信仰である。

    ・「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(ヨハネ6:29)。
    ・「この善い行いを楽々と実行できると考えてしまうが、じっくりと思案しなければならない。いっさいの行いは、この行いのうちにおいて行われなければならないからであり、またそれらの行いの善性も、この行いから受け取らねばならないからである。このことを大いに強調して、人々が理解できるようにしなければならない」。
    (信仰という最高の善い行いは簡単ではないことは続く内容から理解できる)

  3. 人があらゆる種類の行いをなすとき、人々はそれを善い行いとみなすかどうか。人々は否と答え、善い行いを狭く考える。

    コヘレト9:7~9
    さあ、喜んであなたのパンを食べ/気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。どのようなときも純白の衣を着て/頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々/愛する妻と共に楽しく生きるがよい。 

    コヘレトの言葉は、私たちの行いが、どんな名で呼ばれようとすべては無差別的に善であるという意味する。しかしながら、私たちのすべての行いは、それが神のみ心にかなうものであることをわたしが確信する限りにおいてである。
    (そのような確信を持つことができるのか。キリストは持っていた)
    ヨハネ8:29
    わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。◎そこで見てもらいたい。なにゆえ私が信仰をかくも高くあげ、いっさいの行いを信仰の中に引きいれ、そして信仰の中から流れ出ない、いっさいの行いを退けるのかを

  4. だれでも自分の行う行いがどういうときに善であり、また善でないかを自分で認め感じることができる。即ち、自分の行うところは神のみ心にかなうとの確信が心にあれば、たといそれが、藁くず一本を拾い上げるような些細な事柄でもっても、その行いは善である。

    ・神のみ心にかなうとの確信を持つことは、恩恵に照らされ、固く支えられたキリスト者以外のものは、不可能なことである。
    ・信仰だけが他のいっさいの行いを善なるもの、神のみ心にかなうもの、価値あるものとする。信仰は神を信頼して、人間の行ういっさいの事柄が神を喜ばせることを疑わない。そして聖書は、唯一の信仰以外のものに神的な善い行いの名を与えていない。
    ・神を信頼する者に、神はただちに聖霊をお与えになる。

  5. この信仰の中では、いっさいの行いが等しくなり、互いに同等のものとなる

    行いが神に喜ばれるのは、行いそのもののためではなく、信仰のためであり、その信仰は、どのような行いの中にも、存在し、生きて働く。こうした信仰に生きているキリスト者は、善い行いに関する教師を必要とせず、何でも自分の目の前に現れる事柄を行って、しかもいっさいが善事となるということである。

  6. 教師は必要がないことについて
    神に対するこうした信頼に生きるキリスト者は、すべてのことを知り、すべてのことをなすことができ、およそなすべき事柄に対しては、いっさいに自信があり、しかもいっさいのことは喜びに満ちた自由な気持ちからなすのである。このようにして神のみ心にかなうことが、自分の喜びだからである。

  7. 行いにおいて信仰はまだ小さく弱い。人に尋ねてみよ! 

    彼らの身体、財産、名誉、友人、その他何であれ、その所有するものの上に不幸が訪れた場合でも、なおよく彼らは、自分たちが神の好意のうちにあり、大小を問わずいっさいの苦悩と災厄とが、わが身のために働く神の恵みの摂理であることを信じるかどうかと。

    私たちの感覚や悟性にとっては、怒りの姿に見える神に対して心からの信頼を寄せ、思いにまさる善いものを神に期待しうる道がここにある。

    このような苦悩の中にあって神を信頼し、神の慈しみが自分たちの上にあることを堅く信じて動かない人々、そういう人々にとっては、苦悩も禍もひとえに貴重な功績であり、何人もその価を計り知ることができないほどの高貴な財宝である。なぜなら、信仰と信頼とは、すべてを神の前に尊いものとするからである。死についてさえも、詩編116編に「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」と記されているくらいである。

    この段階の信頼と信仰とが先に述べたそれ(信仰)に比べていっそう良く、いっそう高く、いっそう強くあるのと同様に、こうした信仰のうちにある苦悩も、信仰における他のすべての行いに比べると、はるかにたちまさっている。それゆえに、このような行いと苦悩との間には、はかりしれない価値の相違がある。

  8. 以上のいっさいにまさる信仰の最高段階は、神が、この世の苦難ではなく、死、陰府、罪をもって良心を罰し、あたかも永遠にのろいお怒りになるかのように、恵みも憐れみも拒まれる場合にある。けれども、この段階の信仰を経験する人は、極めて少ない。

    ダビデは、詩編6編1節で、嘆き訴える。「主よ、怒って私を責めないでください」と。ここになお、私たちの上に注がれる神の恵みあふれる慈しみを信じることは、被造物から、あるいは被造物のうちに生じうる最高の行いである。

    見よ、このように私は語り、信仰を常に賞揚し、信仰なしで行われるいっさいの行いを退けてきた。